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父、八木欣之介の死

 ヨーロッパから戻ったと思ったら、それを待っていたかの如く父の状態が悪化し、帰国早々19日に東京に走りました。昏睡状態で苦しむ父を見て悲しくて仕方なかったですが、兄弟一同集まった甲斐あって、その夜は何とか一命を取り止めました。翌朝私が大阪に戻ってる最中に意識が回復したとの報告があり、何と遺言を書き留めたようです。

 結局その夜(20日)に亡くなり、最後まで清い人生だったのを見て、息子としては誇りに思います。父は大学卒業後官僚として活躍し、当時の自治省や内閣法制局、自治大副校長を経て、民間の大学に呼ばれ、慶應大学の名誉教授になったり、叙勲も受けて立派すぎです。

 私とは全く違う道でしたが、その道を全うしました。やはり、その影響は計り知れず、私も大学は法学部を選び、自由な教育方針は父から学んだと言えます。ただ、成人になるまでは厳格に育てられましたが(笑)...

 法と道徳、哲学といったのものはクリスチャン精神というものも抱合し、74歳で洗礼を受けた父の人生は正に常に発展途上でした。何より民主主義という概念は多数決ではなく、少数意見を取り入れるものだといった父の考えは私の指針でもあります。多様性マイノリティと言ったものを重んじるのはそこからです。

(東京の杉並区にある実家近くの公園は、桜が咲き乱れてました)

 八木春の経営に関して一時父に口を挟まれ、2017年に私は八木春産業の会長として残りながらも八木春株式会社の社長は退くといった事もありました。間抜けな私は「逆世代交代」と言って、父に譲ったと吹聴してました。

 しかし、2020年最後はまた私を社長に選任して頂きました。私と従業員との確執があったにも関わらず、父のその判断は多数決ではありませんでした。

 海外事業にしばらく注力できたのも、今となってはその頃の下積みが、ようやく花の咲き出す原動力となった気がします。それも父のお陰だったのでしょう。

 24日の葬儀は浜田山キリスト教会で開催されました。改めて聖書を噛みしめると、いかに自分が不徳だったかがよく分かります。何故私は人に対して戦ったりするのでしょうか。裁きは神のする事であり、平和を保つのが我々のすべき事です。

 結局「論語読みの論語知らず」ならぬ「聖書読みの聖書知らず」であり、私は信仰が浅いと言えます。

(本や新聞、書類で溢れかえった父の書斎)

 商人の道では父に負けることはないと思っていますが、まだまだ天で父が私を見て笑っているようです。「はよ、本物になれよ」と。享年84歳でした。

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